わたしたちは、今あらゆるジャンルのスポーツ選手がサングラスをかけている姿を目にします。
実は、日本人のスポーツ選手がサングラスをかけるようになったのは、1992年のバロセロナ五輪からで、
その影には、ものづくりの町、東大阪でメガネづくりにこだわる職人がいました。
山本光学は、戦前から続く工場などで使う産業用防護メガネや水泳やスキーのゴーグルを製造する老舗。
そんな老舗には、哲学がありました。「目を守ることもメガネの使命、安心して使えるものが人に愛される。」
この会社が、数々のスポーツサングラスの開発を手掛け、今では日本のスポーツ界で安心して使用できるメーカーと
して称賛を浴びている。そのサングラスの名前は、「SWANS」。今では、よく知られている名前です。
ここにたどり着くまでには、いろいろなドラマがありました。あらゆる競技団体がサングラスの着用を不謹慎として
していたため、普及に非常に多くの苦労がありました・・・。
3代目社長、山本為信氏は、1980年代ある考えにとりつかれていました。スキーや水泳のゴーグルの技術を
応用してアスリートの目を守るサングラスを作りたい・・・。しかし、あらゆる競技団体が選手のサングラス使用を
許可しなかったため、山本氏の計画は開発前に頓挫しました。「外国人ならいざ知らず、日本人スポーツ選手に
サングラスは不謹慎・・・」というのがその理由でした。
そんな状況が変化したのは、1991年、バルセロナ五輪の前年のこと。マラソンが夕方にスタートすることが
決まり、選手は最初の20キロを西日へ向って走らなければならなくなったのです。山本氏は、さっそく陸連に掛け合い
サングラスの開発に着手します。山本氏は、まず最初に有森裕子選手に意見を求めました。
彼女がこだわったのは、フィット感。そこで山本氏は、メガネのようにかけるのではなく頭全体を挟み込むカーブを描く
サングラスを考えました。また、フィットさせればさせるほど、レンズが曇ってしまうため切り込みを入れるなどの
工夫も施しました。こうして試作品が完成します。しかし有森選手の要求はさらに上をいっていました。
「目を見えなくしてください・・・」自分の目が他の選手から見えなくなれば、他の選手との駆け引きが有利になると
有森選手は考えたのです。
そこで、山本氏はレンズにミラー加工を施しました。その山本氏のつくったサングラスをかけて力走した有森選手は、
見事、銀メダルを獲得。これをきっかけに、あらゆる日本人スポーツ選手がサングラスをかけるようになったのです。
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